人にギブできるようになりたかったけど、できなかった理由

マックに行ったら、中学生が職業体験してた。

受け入れる側大変だよなって思う。
お客さんとお客さん気分の中学生両方相手にしなきゃいけないもんね。

 

私も中学生の時職業体験したけど、そんなに一生懸命やっていなかった気がする。

単純に動物のお世話の方が楽しそうだなーっていう理由。

つまり、お客さん目線で職業体験していた。

サービスを提供して、お客さんに喜んでもらって、その対価としてお金をもらうという流れは全然分からなかった。

 

わからなかったというか、実感することができなかった。

 

お客さんも別に喜んで帰ってる訳じゃないし、提供する側も1日のルーティンをこなしてるっていう感じだったし。

だから仕事っていうのがなんか大変そうだなというイメージしかなかった。

 

そういう仕事のやり方があんまり好きじゃなくて。

社会人になって仕事をするってなっても喜びを持って働くっていうことがイメージしにくかった。

親も周りの大人もみんな仕事は苦しいものっていう価値観で働いていたし。

 

でも今の私は仕事は喜んでもらうためのものだと思ってる。

喜んでもらえるならなんだっていいと思ってる。

苦しくなくたっていいし、忙しくなくたっていいし。

喜んでもらって笑ってもらって、心地よくなってもらったら、それで良いと思ってる。

 

とはいえ、そういう私はお客様気分から抜けられたのはいつだったんだろう?

まだ全然抜けられてない気がする。
ビジネスがうまくいかないんでもそういうとこだよな。苦笑

わたし、中学生の頃からそんなに変わってないのかなぁ。

 

 

与える喜びってのは、与えて喜んでる人を見ないと分からないのかもしれない。

そういう、与えて楽しめる人が世の中には少ないんだよね。

与えることがそのまま喜びに転ずると、余計気が少ないから。

あと、結果主義、成果主義で短期的にしか成果が見られない。

 

けど、楽しそうにそして人に提供する喜びを知ってる人が一番幸せなのは間違いなくて。

母としてはそれを娘にも知ってほしい。

そのためにはやっぱり

まず私がたっぷり娘を甘やかしてあげなきゃいけない気がする。

そのためにも十分自分が満たされてないといけない。

 

心地良さや満足ってシャンパンタワーだから、まず自分がたっぷり満足してないと人に与える余裕はない訳で。

ない袖はふれないのだ。

 

私がいつまでも他人に本当に心からギブできないのは、ずっと自分の中に渇望感があるからだよね。

親に甘やかしてもらうことができなかったというか、親が私に甘えていた過去。

そうやって他人主義で過ごすことが認められているという思い込み。

ギリギリのギリギリまで頑張って、つぶれて初めて他人に奉仕してもらう、
ということをちょっとご褒美的に感じているところ。

我慢や忍耐苦しむことを美徳に感じているところ。

 

そういうのが色々と自分にとって君を絞める結果になってるんだよな。

 

だから

どんなに理不尽なワガママをいっても聞いてくれる、聞く耳を持ってくれる、そんな自分でも愛してくれる許してくれる。

そういう瞬間を経しないと誰かに与えようとは思えないんだと思う。

 

私が大人になって誰かに与えようと思えたのは夫が私をたっぷり甘やかしてくれたからで。

散々振り回して、散々身勝手な事をして、気分の浮き沈みもめちゃくちゃ。

八つ当たりだって日常茶飯事。

だけど、それでも見捨てずにいてくれた(放っとけないと言って付き合い続けてくれた)っていう事が私を満たしてくれたんだと思う。

 

ここ最近の私は本当にめちゃくちゃで、メンタルのアップダウンも激しくて、いつだったかの自分に戻っちゃってたんだけど

そういう私ですら許してくれたんだよな、彼は。

まぁ、別に丁寧に接してくれたとか親身になって慰めてくれたとかいうわけじゃなくて、

ただ単純にちょっと離れて放置されたっていうだけなんだけど。

でもこれ私実家だったら怒られてたし、その態度なんとかしろって言われてたと思う。

 

「気が済むまでやんな、落ち着いたら帰ってくればいいから。でも、出ていけとは言わないし、そのままそこにいていいから。」

 

そんなスタンスに救われたんだと思う。

(逆にあれこれ手をかけたり声をかけたりされると、余計に私はカリカリキリキリイライラしていたと思うし笑)

 

親は常に「そんなんじゃ、世の中やっていけないぞ」というメッセージだった。

そういう、「変われ(面倒くさいから、こちらのためにお前が何とかしろ)」って言われることは否定と同じようなもんで、苦しかったんだよね、きっと。

親にありのままの自分を否定されているようで、苦しかったし、悲しかった。

 

そんなわけで、私も昔と比べたら少しは誰かに何かをギブしようっていう気持ちになってる。

 

「もらうだけもらうもらって当然、自分だけが損をするのは嫌。」

ではなく、

「自分はたっぷりもらってきたから、その分誰かにも分けてあげよう」

と思えたのは自然な流れなんだろうな。

 

私は仏教をここ数年勉強しているのだけど、

そういう意味で仏教で本当に救われた人って

「満たされたー!」
「有り難すぎる!」
「こんなに幸せにさせてもらっちゃっていいんですか?」

って感じで喜びが溢れまくってるから、どんどん他者にギブできるんだよね。

早くその境地に達したいけど、まだしばらく時間がかかりそう。

なのでまずは、今できる範囲で自分をうまく満たす、甘やかすっていうことで自分をコントロールしていかなくちゃなと思う。

 

そんなことを考えたマックでのひとり時間でした。

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